星組「ディミトリ」で描かれていない原作エピソード~2つの紫の花などを考察

宝塚星組

星組公演「ディミトリ~曙光に散る、紫の花~」は、並木陽作「斜陽の国のルスダン」を原作としています。

歴史小説としてはかなり短くコンパクトな原作なので、「ディミトリ」は基本的に原作に忠実な作りになっています。

その中でもいくつか舞台では描かれていない原作「斜陽の国のルスダン」のエピソードがあるので、その部分をまとめておきたいと思います。

この先は結末までのネタバレ全開ですので、その点ご了承の上お進みください!
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ディミトリ(礼真琴)とルスダン(舞空瞳)のもうひとつの「紫の花」

「ディミトリ」では副題に「曙光に散る紫の花」とあるように、紫のリラの花が冒頭から最後まで重要な役割を果たしています。

リラの精(小桜ほのか、瑠璃花夏、詩ちづる)は、ディミトリ(礼真琴)とルスダン(舞空瞳)の人生を、時に翻弄しながら見続けていきます。

イサニ王宮のリラの木の下は、ディミトリとルスダンの出会いの場所であり、幸せの象徴のような場所です。

「ディミトリ」では紫の花=リラの花として描かれていますが、原作ではもうひとつ紫の花が登場します。それはディミトリがジャラルッディーン(瀬央ゆりあ)を裏切った後、自殺に使った毒薬です。

宝塚版ではディミトリが何らかの毒を飲んだ、ということしかわからないのですが、原作では「狐の手袋」という「紫の花」の毒で自殺したと書かれています。

「狐の手袋」はジギタリスという植物名です。

この写真の花がジギタリスですが、葉や根、花など全体が有毒で、口にすると胃腸障害や頭痛、めまい、不整脈などを引き起こし、重症になると心臓機能が停止して死に至るそうです。

そしてディミトリが「狐の手袋」で自殺した、という情報はルスダンの元にも届き、原作では最終的にルスダンも同じ紫の花で命を絶つことが示されています。

 

ディミトリとルスダンの幸せな思い出の象徴であるリラの花と、2人が命を絶つ時に選んだジギタリスの花。ふたつの紫の花が両極端なシチュエーションで登場するのが、何ともドラマチックだなと感じます。

 

宝塚での上演にあたり「曙光に散る紫の花」という副題がついたので、リラとジギタリスという2つの紫の花を取り上げるのかなと思ったのですが、舞台上で出てくるのはリラの花だけのようでした。

ディミトリ死後のトビリシの末路

宝塚版では、ディミトリ(礼真琴)がホラズム側の情報をジョージアへ流し、それをもとにルスダン(舞空瞳)たちが首都トビリシの奪還に成功したところで幕が下ります。

ディミトリの命と引き換えにルスダンとジョージアは救われた、という風に見える終わり方になっているのですが、歴史の流れで見るとディミトリのしたことは正直ほとんど意味を持っていません。

クライマックスとして描かれる首都トビリシ奪還は一時的なもので、その後モンゴルに攻め込まれたルスダンは、自ら命じてトビリシの全てを燃やしてしまいます。

「ディミトリ」劇中では、モンゴルは序盤に出て来るのみで、後半はジャラルッディーン(瀬央ゆりあ)率いるホラズムが、ジョージアの敵として描かれています。しかし史実ではジャラルッディーンも、ディミトリの死から数年後にモンゴルとの戦いに敗れて亡くなっていて、ジョージアの敵はモンゴルになります。

ルスダンはモンゴルの手に渡さないためにトビリシを燃やし、その後辺境の地まで逃げ続けることになっています。

 

「ディミトリ」冒頭で、物乞い(美稀千種)が誰もいなくなった土地を徘徊し、リラの精たちに出会うという場面は、トビリシの辿った末路を抽象的に表現しているのだと思います。

 

個人的には、ディミトリの命をかけた行動が、歴史の流れの中では結局報われなかったという虚しさも含めて、この物語の味わい深さだと感じました。

とはいえ、ディミトリをタイトルロールにした宝塚版でそこまで描写してしまうと、あまりにも救いがなく主人公の存在意義も弱くなってしまうので、あえて「ディミトリがルスダンを救った」と見えるさじ加減で終わらせているのかなと想像します。

 

ルスダンの最期

宝塚版では、首都トビリシの奪還後、遠く離れた地でディミトリ(礼真琴)が亡くなったことをルスダン(舞空瞳)が悟り、思い出の場所であるリラの木の下で、女王として生き抜くことを誓って幕となります。原作でも同じくこれが最後のシーンとなっています。

ただし、原作では冒頭でルスダンの最期についての描写があります。時系列としては一番後、ディミトリが亡くなって約20年後のシーンです。

モンゴルから逃げ続けたルスダンは秘境の地まで落ち延び、そこで密かにモンゴル側に送り込んでいた息子ダヴィド(舞台上でも赤ちゃんとして登場するディミトリの息子です)が、ジョージアの後継者としてモンゴル有力者の後ろ盾を得た、との知らせを受けます。

宝塚版では描かれていませんが、ギオルギ先王(綺城ひか理)とバテシバ(有沙瞳)の息子と、ルスダンとディミトリの息子が王位継承を争っていて、自分の息子の王位が確実になるまでは死ねない、というのがルスダンの思いでした。

 

舞台だと最後にルスダンが言う「全て終わったら『よく生き抜いた』って抱きしめて」という台詞の「全て終わったら」は、「天寿を全うしたら」という意味に聞こえます。ただし原作では、息子の立場が確実になったことで、ルスダンは「自分の役割は終わった」と考えます。

そしてあらゆる毒を取り寄せて並べ、ディミトリと同じ紫の花ジギタリスを選んで服毒自殺をする、というのがルスダンの最期になります。

 

その際に、かつて母であるタマラ女王から贈られた髪飾りを侍女に託し、生きてトビリシの地を踏むことがあれば、イサニ王宮のリラの木があった辺りに埋めるよう頼みます。

このエピソードも舞台では登場しませんが、宝塚版では少女時代のルスダンが物乞い(美稀千種)に渡した髪飾りが、トビリシ奪還後に物乞いから娘タマラ王女(藍羽ひより)の手に渡されているので、受け継がれていくもののモチーフになっているのかなと思います。

ちなみに史実では、ルスダンとディミトリの娘タマラ王女は、後にディミトリの母国であるルーム・セルジュークの帝王へ嫁ぎ、崇高なまでの美貌を持つ「ジョージアの貴婦人」として世に知られる存在となっています。

 

ギオルギ(綺城ひか理)の右目が見えなくなった理由

宝塚版では、ギオルギ王(綺城ひか理)の右目がほとんど見えないことは、限られた者だけが知る秘密として副宰相アヴァク(暁千星)からディミトリに告げられますが、原作ではディミトリ含め皆がギオルギ王の右目が見えないことを知っている様子です。

宝塚版でのギオルギは強くて賢い若き国王として描かれていますが、原作では自由奔放で変わり者かつ気さくな人物であることも強調されています。

 

ギオルギの右目が見えなくなったのは、病や戦いでの傷ではなく、お忍びで出掛けた酒場で酔っ払いと喧嘩し殴られたのが理由です。

原作では、この事件を受けた宰相イヴァネ・ザカリアン(ひろ香祐)は「情けなさのあまり号泣し、しばらく出仕を拒否した」と書かれています。

イヴァネの息子であるアヴァクは、宝塚版ではギオルギ王を強く慕っていたように描かれていますが、酔っ払いの乱闘騒ぎで陛下が失明した時にはどのような反応をしたのか、気になるところです。

ジャラルッディーン(瀬央ゆりあ)がディミトリを助けに来られた背景

ルスダン(舞空瞳)に裏切者と誤解されたディミトリ(礼真琴)は、クルタヴの城に幽閉されます。

ホラズムに攻め込まれて女王一行がトビリシから逃げる際、アヴァク(暁千星)は部下のムルマン(天飛華音)とセルゲイ(碧海さりお)を使って、ディミトリを殺そうとしますが、ジャラルッディーン(瀬央ゆりあ)とナサウィー(天華えま)が間一髪乗り込んできて助けます。

 

元々ディミトリの父であるエルズルム公(大輝真琴)が、ディミトリの救出をジャラルッディーンに頼んでいたから、というのが理由ですが、原作を読み返すともうひとつポイントがありました。

 

原作では、ルスダンが密かに、ホラズム軍の耳に入るように「ホラズムとの接触を図った罪で、ルーム・セルジュークの王子がクルタヴに幽閉されている」という情報を流しておいた、と書かれています。

友好関係にあるエルズルム公の息子であるディミトリを、ジャラルッディーンは悪いようにはしないだろうという想定の元で、ホラズムにディミトリを保護させるように、ルスダンが仕向けたということになります。

ルスダンたちがホラズムから逃走するような状況下では、「ジョージアの裏切者」としてジャラルッディーンの元にいるのがディミトリにとって一番安全だ、と考えたのです。

 

舞台上ではこの描写はないので、いつルスダンがディミトリを許したのか、誤解が解けたのかどうか、はっきりとはわかりません。

でも原作のこのエピソードを踏まえると、ルスダンはどんな時でも彼の命を一番大切に思っていて、許す許さないではなく、ディミトリが本当に敵だったとしても生きてさえいてくれれば良いという境地に最初からいたんだな、と思わされました。

ジャラルッディーンはディミトリの裏切りを最初から予感していた?

ジャラルッディーン(瀬央ゆりあ)に命を助けられたディミトリ(礼真琴)は、心の内を隠し彼に付き従います。

ただ、原作ではジャラルッディーンの心理について以下のような記述があります。

「帝王はこの若者のうちに、張り詰めた琴の弦のように繊細な魂が震えていることに気づいていた。それこそ、この帝王の最も好みとするところだった」

つまり、もしディミトリが裏表無くジャラルッディーンに忠誠を尽くすだけの人物であれば、ジャラルッディーンはそこまでディミトリを気に入らなかっただろうということだと思います。

ジャラルッディーンは最初から、ディミトリには自分に見せている表の顔だけではない部分があることをわかっていた上で、それこそが寵愛のポイントだったというのが面白いなと。

ジョージアとホラズムの戦力の差を考えたら、ディミトリが仮に裏切ってジョージアのために動いたとしても、戦いの大勢に影響はない、という帝王としての判断もあったと思います。

(実際、ディミトリの情報をもとにルスダンはトビリシを奪還しますが、ホラズムに勝ったわけではありません)

ディミトリを再求婚の使者としてルスダンの元を送る許可をした時にも、ジャラルッディーンとしてはディミトリが戻ってこない可能性も考えた上で、彼がそうしたいならそれで構わないと思っていたのではないかと。

寵愛していたディミトリの裏切りを知った時、ジャラルッディーン個人の心情としてはショックを受けたと思いますが、結局ディミトリは帝王の許容範囲内で動き回っていただけとも言え、それもディミトリの人生のやるせなさを浮き立たせているなと感じました。

 


このように、原作「斜陽の国のルスダン」で示されているルスダンやトビリシの行く末は厳しく、これを踏まえて見ると宝塚版「ディミトリ」も更に数段切ない物語になります。

ディミトリを主人公にした宝塚作品としては、ディミトリが命をかけてルスダンを助けた、という見え方に留めておくのがベストだったのだろうなと思いますが、さらに原作にある情報も踏まえると、やり切れなさが強く残るのが味わい深いなと感じました。